生産工学部研究報告B(文系)第55巻
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は,本稿4.1.4で後述する。4.1.3 A-1文書第2項の指示内容とその背景A-1文書第2項の内容は,1948年8月13日以降の刑死者遺体は火葬に付し,遺灰は秘密裡に海洋処分することを指示するもので,上述の第1項で取消した墓地埋葬に代わる新たな措置方法を示した内容となる。加えてこの第2項では,刑死者遺体に関する情報の徹底的な秘密保持を求めており,遺体が部外者に持ち出されることを防ぎ,なおかつ遺体の身元,処分方法,場所は絶対に明かしてはならないことも指示している。このような遺体の火葬及び遺灰の海洋処分,そして処分方法の一切合切を秘匿するという措置は,遺族や関係者による遺骨入手を完全に封じるものであり,この第2項の内容は刑死者のいかなる遺物をも絶対に日本側に渡さないという,米軍側の強い意志の表れといえよう。では,なぜ米軍はこのような強硬な態度をとったのであろうか。考えられる要因としては,東京裁判に先行して行われたドイツ・ニュルンベルク裁判の影響が考えられる。ニュルンベルク裁判は1946年9月30日に死刑宣告が下され,処刑は1946年10月16日に行われており,この時の刑死者の遺体はA-1文書第2項と同じく,駐独米軍墓地登録部隊によって秘密裡に火葬され25),遺灰はミュンヘン郊外の河川に散布されている26)。このドイツでの米軍側による遺灰散布行為は,Hermann Göringの「自身の骨は殉教者として大理石の棺に入れられるだろう」27)とする発言にあるように,処刑された戦争指導者たちの崇敬・神格化を懸念した,米軍の対抗措置との見方もある。現時点で米軍側が日本人戦争指導者に対しても,このような見方をしていたことを示す資料は確認できていないが,ニュルンベルク裁判の後続裁判にあたる東京裁判にとって,ドイツにおける処刑された戦争指導者の措置を先例とした可能性は十分に考えられる。ただし本稿の冒頭で指摘した通り,A-1文書の指示内容は東京裁判の戦争指導者だけではなく,捕虜虐待などの通常の戦争犯罪で起訴されたBC級戦犯も対象となっており,刑死者遺体の火葬と遺灰の海洋散布の目的が,もし戦争指導者の崇敬・神格化の阻止にあったとするならば,BC級戦犯の刑死者は東京裁判の煽りを受けたものといえる。なお,このような刑死者遺体を火葬・散骨する措置について,David L. Howellハーバード大学教授(日本史)は,この措置が当時の米陸軍省のマニュアル書に反する可能性が高いことを指摘している28)。Howellによると1947年11月9日に米陸軍省が出した軍事上の処刑手続に関するマニュアル書には,「刑死者の近親者またはその他の関係者が遺体の引取を希望する場合には,執行者として指名された士官は,可能ならば埋葬のためにその引渡しを許可する。そのような要求がない場合は,適切と思われかつ関連規則によって認められた駐屯地,民間人の墓地,または死没地に埋葬するようにする」29)とあり,遺体を秘密裡に火葬・散骨することを指示したA-1文書第2項の内容は,米陸軍省のマニュアル書との整合性が取れていないとしている。そしてHowellは,この散骨の目的が戦争指導者の崇敬・神格化阻止にあったとするならば,結局は東条ら戦争指導者は靖国神社に合祀されており,崇敬・神格化の阻止という考えは「欠陥のある論理(faulty logic)」であって,戦争指導者らの追悼(memorialize)の阻止にはならなかったと述べている30)。何れにしてもこのA-1文書が出された1948年8月13日は,4月16日に東京裁判が結審した後の休廷期間にあたり,戦争指導者である被告人らの判決の言い渡しを待つ状態であったことから,東条らの死刑宣告が確実視されるなかで,A-1文書での遺体の火葬・散骨指示は,戦争指導者の刑死者対応を意識したものであった可能性が十分に考えられるといえよう。4.1.4 A-1文書第4項の埋葬済み遺体の対応指示A-1文書第4項の内容は,既に埋葬された刑死者の遺体を掘り起こし,火葬の上,秘密裡に遺灰を海洋散布するよう指示するものである。第2項と同様に米軍側の戦犯刑死者に対する厳しい姿勢を改めて認識させる内容である。このA-1文書が出された1948年8月13日時点で,第4項の指示に該当する刑死者の埋葬遺体は存在しており,マニラ法廷関係では既に1946年2月23日の山下奉文大将の処刑を最初に本間雅晴中将(1946年4月3日処刑)ら多数の処刑が行われており,また横浜法廷では1946年4月26日の由利敬大尉の処刑を始めに13名の刑の執行が行われている。そして彼らの遺体は上述の通り(本稿4.1.2),何らかの形式で米軍管理下の墓地に埋葬されたと考えられるが,実際にこの第4項の指示通りに,米軍が埋葬済みの遺体を掘り起こしたかについては,それを示す公文書の確認はできていない。ただし1953年に井上忠男氏がスガモプリズンで処刑された刑死者遺体の行方を調査しており,非常に興味深い推測を下している。この井上は陸軍中佐として敗戦を迎え,戦後は戦犯法廷における被告人支援や,旧厚生省引揚援護局法務調査室長を歴任するなど戦犯支援業務に携わった人物である。また,現在,東京・竹橋の国立公文書館には膨大な戦犯関連資料が所蔵されているが,この資料収集作業にも井上は参画している。この井上が刑死者遺体の行方を調査するきっかけは,1953年10月にスガモプリズンの収監者から,刑死者の遺骨が横浜久保山火葬場内に埋葬されているという情報が寄せられたことによ─ 6 ─

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