生産工学部研究報告B(文系)第55巻
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に第6軍の動員が解除され,以後第8軍が西区域を含む日本全土の占領任務を行っている。また戦争犯罪人への対応もこの第8軍が占領直後から行っており,例えばスガモプリズンや東京裁判の市ヶ谷法廷の施設管理,あるいはGHQ最高司令官の授権による横浜法廷の軍事委員の招集などが上げられる。これらの任務は,第8軍の上部組織が1947年1月1日に米太平洋陸軍から米極東軍に編成替えになった後も引き続き行われていた。そして1948年12月23日にこの第8軍の下で7名の処刑が行われ,その遺体対応に当たったのが第8軍の需品部第108墓地登録小隊である。この需品部の米陸軍における役割は,軍隊で必要とする食料・衣服・燃料などの軍需品の補給を任務とし,1962年に米陸軍装備司令部(Army Materiel Command)が創設されてからは,需品部は兵器補給の任務から外されたが,その他,軍務に必要とされる多種多様な物品の調達・補給を行っている。第108墓地登録小隊はこの需品部に所属しており,当時接収していた旧制神奈川県立横浜第三中学校(現,神奈川県立緑が丘高等学校:神奈川県横浜市中区本牧緑ケ丘37番地)に駐屯して,日本本土空襲で撃墜されたB29の搭乗員や,日本国内の捕虜収容所で死亡した兵士たちの遺体・遺骨の回収作業などを行っていた。この第108墓地登録小隊のような米兵の遺体対応部隊は第2次世界大戦中に各戦域に配置され,米陸軍の場合,1945年5月の時点において中隊(Company)規模で30以上,そして小隊(Platoon)としては11部隊が各戦域に配置されていたという11)。このような米陸軍の取り組みは,戦没者の遺体を迅速かつ尊厳を以て遺族に返還するという,南北戦争以来の基本理念に基づくものであるが12),その任務は多くの障害と危険を伴うものであった。特に国外戦ともなると回収作業は困難を極め,かつてはいったん現地に遺体を仮埋葬し,停戦後あるいは戦争終結後に掘り返して,家族の元に戻すという方法が取られていた。そのため仮埋葬に関する情報を一元的かつ正確に記録・管理することが求められ,このような任務のことを米軍では“Graves Registration(墓地登録)”といい,その任務を担ったのが本稿で取り上げている墓地登録部隊となる。その後,遺体の運搬能力の高度化・迅速化により,戦闘地での仮埋葬やその登録業務の必要性がなくなったため,1991年にはこの任務の呼称が“Graves Registration”から“Mortuary Affairs(霊安事務)”に変更されている13)。この米陸軍における墓地登録任務は,米合衆国陸軍需品部(U. S. Army Quartermaster Corps)のホームページによると,アメリカにとって本格的な海外戦となった1898年の米西戦争に遡るとされる。この米西戦争では民間の葬儀業者による埋葬隊(Burial Corps)が編成され,戦地となったキューバに派遣されている。この埋葬隊の活動によって1,222名の戦没者遺体が本国に戻され,身元判明率は86%であったことが記録されている 14)。この高い判明率の要因は,現地で遺体を仮埋葬する際に,その身元情報を入れたガラス瓶も一緒に埋め,発掘後,それを手掛かりに本人確認を行うという工夫が功を奏したといわれている15)。そして1899年の米比戦争に至っては,身元判明率が100%に達しており 16),これは従軍聖職者として米比戦争に参加したCharles C. Pierceの活躍によるものとされている。このPierceの本来の任務は,従軍聖職者として戦没者の葬儀を司ることであったが,司令官の命令でマニラ遺体安置・識別研究所(The Morgue and Identification Laboratory in Manila)の責任者も兼務することになり,熱帯気候における遺体保存方法の研究や,仮埋葬されていた身元不明遺体の本人確認作業に従事している。Pierceは遺体の確認作業に熱心に取り組んでいたようで,掘り出された遺体を自ら手に取って,身元特定につながる情報収集を行っていたという。この時の経験からPierceは個人情報を刻印した金属製の「認識票(ID tag)」の有効性に気づき,軍による認識票の一律支給と将兵に対する携行の義務付けを主張するなど17),Pierceの取り組みと遺体識別作業から得られたノウハウは,今日の米軍における身元確認技術の嚆矢とされ,その貢献からPierceは“Father of Mortuary Affairs(遺体安置所の父)”と称されている18)。そして1912年になると戦没将兵の遺体回収及び埋葬管理は,これまでのような民間業者や個人に頼るのではなく,米陸軍需品部の軍務として組み込まれ,その直後に勃発した第1次世界大戦では需品部の墓地登録部隊として出動し,これまでとは比較にならない程の戦闘犠牲者が出たものの,戦没将兵の身元判明率は97%となったという 19)。その一方で約39,000名の遺体が遺族の意思で本国に戻されることなく戦没地であるフランス,ベルギー,イギリスに埋葬されている。このように現地埋葬となった背景には,フランス側が遺体を掘り返すことによる衛生上の問題を懸念したことが要因と言われており 20),現地での埋葬措置は,第2次世界大戦でも遺族の意思に基づいて行われていたが,米軍の戦没遺体を本国や家族に戻すという基本理念は変わることはなかった。例えば第2次世界大戦中に米軍は,新たに指紋照合による遺体の身元確認方法を導入し,確認作業の効率化と精度化を図っている。とはいえ第2次世界大戦での遺体回収作業は過酷を極め,特に太平洋戦線の激戦地では,負傷者の病院搬送が遺体搬出に優先され,遺体の身元確認が十分にできないまま死亡地点で埋葬せざるを得ない状況が多々あったようである21)。需品部のホームページによると,最も辛い任務は,フィリピン選における“バターン死の行進”で死没した将兵らの遺体─ 4 ─

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