生産工学部研究報告B(文系)第55巻
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者資料は,そのうちの2つのフォルダに分けて入れられていた。なお,この2つのフォルダには刑死者資料とは無関係の文書も挟まれていたが,今回,本稿ではこれについては取り上げない。この2つのフォルダのインデックスには,下記のようなタイトルがそれぞれに付されており,表記内容は以下の通りとなる。なお,これ以降,便宜上2つのフォルダの表記を「Aフォルダ」と「Bフォルダ」と仮称する。Aフォルダ SPECIAL-BINDER(特別バインダ),OCC8),REPORTS OF INTERMENT AND ALLIED PAPER(埋葬報告書及び関連資料)”BフォルダOCC,TOJO H et al.(東条英機他)9)そしてA,B各フォルダに挿入されていた文書は下記のもので,その内容の詳細は後述するとして,ここでは基本情報として文書のタイトルとその作成年月日などを紹介する。なおタイトルが明記されていない文書の場合は,その概要をタイトル代わりとし,文書の紹介順は一部の資料を除き(A-4文書),基本的に日付順(昇順)とする。そして,便宜上,各文書には日付の昇順で「A-1」,「A-2」の番号を整理番号として付ける。因みにフォルダ内における文書の編綴順番は,A-4・A-3・A-4①②③・A-5・A-2・A-1の順番となっており,Aフォルダ内の文書は金属製ファスナーで一括して綴じられていた。AフォルダA-1 Final Disposition and Policies Governing Burial and Graves Registration of Executed War Criminals(処刑された戦争犯罪人の埋葬と墓地の登録に関する最終処分と方針)/1948年8月13日付A-2 Standard Operating Procedure “Final Disposition and Policies Governing Burial and Graves Registration of Executed War Criminals”(標準作業手順書「処刑された戦争犯罪人の埋葬と墓地の登録に関する最終処分と方針」)/1948年12月1日付A-3 無題/Luther Frierson少佐による遺体処理に関する簡易報告書/1948年12月23日付A-4 Reports of interment and allied paper(埋葬報告書及び関連資料)/1948年12月27日付A-4① 東条英機ら7名のReport of Interment(埋葬報告書)/1948年12月27日付A-4② 東条英機ら7名のCertificate(遺体の本人証明書)/1948年12月23日付10)A-4③ 東条英機ら7名のDeath Certificate(死亡証明書)/1948年12月23日付A-5 Statement of Facts Concerning the Execution of Seven Japanese War Criminals, 23 December 1948(1948年12月23日における7名の日本人戦争犯罪人の処刑に関する事実の陳述)/1949年1月4日付BフォルダB-1 Execution of Prisoners(被収監者の死刑執行)/1948年12月30日付このようにAフォルダ内の資料は,何れの文書も処刑後の遺体処遇に関する文書で,本稿の「はじめに」でも紹介したように,A-5文書には7名の遺灰を「横浜の東の太平洋上約30マイルの地点に進み,広範囲に散布した」とする記述が残されていた。一方のBフォルダの資料は,内容的にスガモプリズン内での処刑時の様子を記録した文書であり,Bフォルダ内の処刑関連資料はこのB-1文書の1通のみとなる。このB-1文書は,内容的に永田が2013年に確認した「執行手順書」と重複する箇所もあるが,資料上の性質は異なり,永田の確認した資料が7名の処刑の「計画書」・「マニュアル書」的なものであるのに対して,B-1文書は処刑の「報告書」といえるものであった。またB-1文書と「執行手順書」を比較すると,立合人や係官の氏名に若干の違いも見られる。その詳細は文書解題で後述する。AフォルダとBフォルダの各文書は,当時横浜に進駐していた第8軍需品部が主に作成・管理していた資料である。7名の火葬と遺灰の海洋散布を行った報告書(A-5文書)を作成したFrierson少佐はこの部隊に所属し,同じ需品部の第108墓地登録小隊と共に遺体対応を行っている。この第108墓地登録小隊が所属する第8軍とは,GHQの戦争占領政策の実働部隊ともいうべき組織で,接収した横浜税関本関(現,神奈川県横浜市中区海岸通1-1)に司令部を置き,日本占領任務を担った部隊である。第8軍の編成は1944年1月に行われ,1945年1月にRobert L. Eichelberger中将を司令官にして,米極東陸軍(USAFFE)の下,フィリピン戦(6月からは米太平洋陸軍(USAFPAC)に編入)で本格的な戦闘に参戦している。日本敗戦後の1945年8月26日にそれまでレイテにあった司令部を沖縄へ進め,8月30日に横浜へ移動している。この第8軍の占領管轄区は,当初,神奈川県・山梨県・長野県・新潟県以東の区域で,一方の西区域は第6軍が担当していたが,1946年1月1日─ 3 ─3.第8軍および第108墓地登録小隊の概要

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