生産工学部研究報告B(文系)第55巻
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の実物は,筆者がNARAでBフォルダの調査を行った際に確認することができなかったが,おそらくこれは永田が確認した「執行手順書」のことかと思われる。ところで永田によるとこの「執行手順書」の第20項には,「執行は,適切な厳粛さを以て見守られる。軍隊的な正確さを以て実施されなければならない。関与者は示威的態度をとってはならず,あらゆる種類の不適切な行為が許容されない」とする刑死者への尊厳保持が指示されているという50)。B-1文書でいう「書簡命令No.12-442」が永田の確認した「執行手順書」であるという推測が成り立つのであれば,B-1文書第9項で「不適切な事件は起こらなかった」と報告しているため,12月23日のスガモプリズン内では,刑死者への尊厳が保たれたことになろう。なおB-1文書の報告内容には,「執行手順書」との若干の違いもある。それは立会人のメンバーで,「執行手順書」のメンバーリストには第8軍需品部のBruce E. Kendall中佐の氏名が記されていたが,B-1文書には出席者として報告されていない。また「執行手順書」には執行責任者や2名の医務官の氏名が未確定状態となっていたが,B-1文書では執行責任者をVictor W. Phelps第8軍憲兵隊長とし,2名の医務官の氏名も明記されている51)。また処刑に際し12月21日21時頃に7名への死刑執行日時の通告が行われたが,この通告の立会人の氏名も記されている。以上のように,東京裁判刑死者7名の遺体処遇に関するNARA保管資料の紹介を行った。これまで7名の遺体の行方に関する情報は伝聞・推測に基づくものであったが,その情報は当事者であるFrierson少佐の報告書(A-5文書)やその関連資料によって裏付けられ,さらには遺体が第108墓地登録小隊の施設に一時搬入されていたことや,遺灰については「横浜の東の太平洋上約30マイルの地点」に広範囲に散布されていたということが,新たに把握できるようになった。またこれらの資料内容は東京裁判の刑死者だけでなく,横浜法廷とマニラ法廷の刑死者遺体に関わる記述もあり,米軍の対日戦犯法廷における刑死者処遇を考える上で,重要な資料であることが確認できたといえよう。そしてこの資料からは次の2つの意義も強調することができる。1つは資料保存の重要性である。今回紹介した遺体処遇関係資料には関係しないが,同資料が入れられていた保管ボックスには「メモ書き」レベルのものも残されていた。このようなメモ書きが重要な情報をもたらす場合があり,NARA及び米連邦政府の公文書管理に対する徹底ぶりと,それに併せての利用者提供サービスには敬意に値するものがある52)。もう1つの意義は,刑死者の遺体処遇に対して,米軍墓地登録部隊が関係していたことの判明である。本稿で紹介した通りこの墓地登録部隊の歩みは,米陸軍の自国戦没将兵者に対する尊崇の念と,遺体回収への不断の努力とともにあり,白木の箱に石一つであった旧日本軍とは大きく異なる。その戦没者に最大限の敬意を払う米軍が,戦犯刑死者とはいえ,その遺体を遺族に還すことなく火葬に付し,さらには秘密裡に遺灰を海洋散布したのである。このような措置の背景には,刑死者遺体・遺骨を日本側に返還することによって,彼らが崇敬・神格化されることの阻止を米軍が図ったとする見方もあるが,それ以上に米軍側には我々日本人の認識を超える,連合国軍側に加えられた戦争犯罪に対しての厳しい感情があったというべきであろう。このように戦争犯罪を研究する上で,その行為者に対する彼我の認識・評価の相違は多々見られ,その相違に関する当不当の判断は非常に難しい場合がある。このような判断を行うためには,出来得る限りの資料収集とその分析が必要であり,それを行うのが研究者の責務と考える。その意味においては,BC級戦犯法廷は東京裁判と比べ資料の収集・分析は手つかず状態といってもよく,例えばBC級戦犯の被告人の選定方法や,刑罰の量刑基準など,その実態が必ずしも明らかになっていない。本稿で取り上げた刑死者処遇もその一例といえよう。何れにしても東京裁判における刑死者処遇については,第8軍の資料によって解明の道筋をつけることができたものの,それでもなおも7名の遺体を火葬・散骨とした目的や,処刑日を12月23日にした理由などの資料確認作業という困難な課題が残されている。このように東京裁判とBC級戦犯に関わる研究分野には,取り組むべき課題が多数あり,本稿がそのような課題解明の一助になることを願って止まない。その一方で,対日戦犯法廷の刑死者の調査には常に重責を感じている。とりわけ刑死者のご遺族・関係者の心情に対してである。本稿では米軍資料と井上の調査結果に基づき,刑死者の遺骨が火葬後に散骨されていた可能性を指摘したが,実のところ,1953年12月15日に当時の引揚援護庁の支援で,BC級戦犯刑死者の遺骨の伝達式が遺族に対して行われており,東京裁判の遺族には1955年4月22日に同じく行われている。この時に伝達された遺骨は1953年12月14日に横浜久保山火葬場の敷地から掘り出されたもので,そのきっかけが「刑死者の遺骨が火葬場内に埋葬されている」とする,本稿の4.1.4で紹介した当時の引揚援護庁復員局法務調査課長の井上に寄せられた情報である。井上は火葬場関係者の証言に基づき,遺骨を採取して遺族へ返還したのだが,ところが後年になって井上がこの埋葬情報を再検証した─ 13 ─5.おわりに

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