生産工学部研究報告B(文系)第55巻
14/48

西尾市の殉国七士廟には,7名の刑死者のものとされる遺骨が祀られている。この祀られている遺骨は,何れも三文字(本稿4.1.1参照)が12月25日から26日の深夜に火葬場から密かに持ち出したものとされ,その手配を行ったのが,火葬場長を務めていた飛田(本稿4.1.4参照)といわれている。三文字はこの遺骨入手の経緯を手記にしており,次のようなことを記している46)。それによると7名の遺体が火葬された23日には,飛田を含む4名の日本人職員が火葬場への入場が許され,火葬開始後,飛田だけが米軍の指示により火葬状況を確かめるために窯の後部に回されたという。そして約1時間半後,米将校の監視の下で白骨化した7名の遺骨が飛田ら日本人職員4人によって窯の前に並べられ,この時に飛田らは米兵の眼をかすめて,7名の遺骨の一部ずつを7つの骨壺に納めることに成功したとされる。ところが三文字手記によると,日本人職員らがその骨壺を隠していた場所で香をたいたために,米兵が骨壺を発見し,没収して行ったことが記されている。この没収された遺骨の措置・行方については,三文字手記では何も言及していないが,手記には窯の前に並べられていたと思われる遺骨のその後に関して「米兵は火葬にした遺骨各一人分を一部宛鉄鉢と鉄棒粉砕して深さ約二寸巾約四寸長訳六寸位の黒塗の小箱に納めて番号を付し米兵が持ち去り残骨全部を一纏として火葬場付属の行路病者等遺骨引取人無き者の骨捨場に遺棄されたのである。飛田場長の報告をうけた私は遺憾やるせなく十二月二十五,六日の暗夜市川師47)と共に飛田氏に伴われて遺骨の遺棄された場所に忍び込んだ。当時は,野犬の群れが吠え立てて誠に物騒千万であった。骨捨場と言うのは約二坪位深さ十二,三尺のコンクリート作り,骨を投入する口は幅三寸位長一尺位の長方形でその上に御影石の花立が乗せて塞いでいる。花立を動かして見ると底の方に真新しい白骨が相当量あったのを火葬場で用いる火かき棒に空罐をつけて苦心してすくい取って普通の骨壺一個に一杯拾い上げたのである」48)と,記されている。つまり三文字のこの手記によると,三文字らが回収した遺骨は,飛田ら日本人職員が骨壺に入れた遺骨ではなく,米兵が持ち去った後の残骨で,その「残骨全部を一纏として」,「骨捨場に遺棄」されたものということになる。しかしながら少佐の報告書には「窯のなかから遺骨のすべてを取り除いた。遺骨のごく一部の見落としをも防ぐために,特別な注意が払われた。本官自らが遺骨を別々に骨壺に入れた」とあり,少佐の報告書を読む限り残骨は存在していないことになる。さらに少佐の報告書には「遺体がスガモプリズンから第108墓地登録小隊駐屯地に搬送されている間や,小隊駐屯地から火葬場までの間において,異常な事件は発生しなかった(A-5文書第2項)」とも書かれており,三文字手記にあるような日本人職員から骨壺を没収した件の記述はない。このように,残骨をめぐる少佐の報告書と三文字手記の矛盾点について,現在,筆者の方では,客観的な判断を下す資料・情報を持ち合わせていない。今言えることは,三文字の手記の内容には,実際に7名の火葬に立ち会った人物しか知り得ない情報が記載されており,この情報はおそらく飛田ら日本人職員が三文字にもたらしたものと考えられる。そのためこの矛盾点の判断は,飛田情報を基にしたと思われる三文字手記の受け止め方次第かといえよう。今後の検証が待たれるところであるが,少なくとも現時点において,この三文字手記の内容を否定するために,Donnell大佐の指示通りに少佐の報告書が利用されたということは,管見の限り確認されていない。4.6 B-1文書【英文タイトル】B-1 Execution of Prisoners(被収監者の死刑執行)【日付】1948年12月24日付【発信】第8軍憲兵隊【宛先】米極東軍司令部【解題】 このB-1文書は一連のA文書とは異なり,Bフォルダに挿入されていたものである。内容は1948年12月23日のスガモプリズン内における状況報告である。なおBフォルダには横浜法廷のBC級戦犯の死刑執行を指示する資料も含まれていたが,今回は取り上げない。このB-1文書の添書きには,この文書が作成された経緯が記されている。それによると処刑を担当した第8軍憲兵隊では,その日のうちに処刑完了の電話報告を米極東軍司令部憲兵隊長に行い,この時に報告した内容は文書化していたようで,B-1文書はその文書化されたもののコピーとされる。Bフォルダ内の資料記録簿には,第8軍憲兵隊が12月24日にこのB-1文書を第8軍の関係部署に発送したことが記録されている。B-1文書の内容については,2013年に永田によって確認された資料と重複する箇所もあるが,永田が確認した資料が処刑の「執行手順書」であるのに対して,このB-1文書は処刑の「執行報告書」の位置づけとなる。その報告内容にはの次の記述があり,「第8軍憲兵隊長Vivtor・W・Phelps,041455,CMPは,1948年12月21日に司令部から出された書簡命令No.12-442(コピーはInclosure 1として添付49))により,処刑を実行するよう指示〔第2項〕」され,そして「死刑執行は効率的な方法で,軍務上正確に行われた。不適切な事件は起こらなかった。秘密が守られた〔第9項〕」と,支障なく適切に行われたことが報告されている。なおB-1文書第2項に記載のある添付資料の「書簡命令No.12-442」─ 12 ─

元のページ  ../index.html#14

このブックを見る