日本大学生産工学部研究報告B(文系)第54巻
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( 5 )最初に、琵琶講談らしくストーリーの筋書を紹介する浪曲のセリフが登場する。すなわち、「未遂に海に入るべき谷水もしばし木の葉の下くぐるなり/人も励みて後にとそ誠の徳やあらわれん/木の葉を潜る苦しみは忍ぶ勤めて末の身の唯切なるを頼みにて/土竃の煙肉付の仮面に名高き越前の吉崎の郷を後にして一句残して出でにけり〔後略〕」というのである。その後、説明の補足としてペン書きで、福井県(越前吉崎)の森田という青年が一九二〇年に一八歳の時、六〇歳の老母と兄を置いて大阪目指して青雲の志を立てた、という設定が記されている。以下、内容分析のため、物語の展開を引用しつつ紹介する。大阪に到着した森田であるが、頼みの友人は不景気で「事業縮小」のあおりを受けて、自分の職業の継続すら危うい状況にあることから、森田に仕事を紹介してくれなかった。森田は大阪の八幡屋町をさまようが、「口入屋に行っても思はしい所はなし」、「北海道行の人夫募集」、「三円の持参金のいる労働下宿人の募集等」を見ても旅費の残金もなく、やむなく大阪城近辺で浮浪生活をすることとなった。そんな浮浪生活の中、森田は通行人に心配されて声をかけられる。最初は事情を説明し船場を紹介されるがこれには行かなかった。今度は疲労から足を踏み外して海に落ちるところを老人に声を掛けられ、仕事を探していることを打ち明けると、大阪市立職業紹介所(以下、大阪市職紹)へ行くことを進められた。大阪市職紹に到着した森田は「地獄に仏の思をした」ものの、「何となく這入り難い思」もした。しかし、夕方六時という時間外の訪問だったにもかかわらず森田は希望を聞き入れられ、梅田で名の知られた大きな硝子問屋に紹介され、めでたく採用が決定した。その後、森田は仕事に苦しむが、「一筋に心定めよ浜千鳥/何処も全も浪風ぞ立つ」との座右の銘をもって苦節の年を重ねて、遂に番頭に昇進した。ちょうどその頃、大阪市職紹では、「就職者の為め共済会や信用組合等の諸施設を新たに講ずるため先づ就職者の勤続退職の別現在の給料及地位等の調査を行ふことヽなった」ため硝子問屋を来訪したが、そこに硝子問屋の娘婿となり同業組合の役員会に出掛ける、出世した森田が現れた。ここで象徴的に「めぐる家運は年月に/開け開けて雇はれの/身は何時しか雇う身に」と浪曲のセリフが入る。求人を出す雇主側になった森田は、「よい女の給仕がありましたら一人お世話願ひたい」といい、紹介所に依頼を出す。この森田の人生を示すように、最後に浪曲のセリフ「入りては家業に精励し出でては社会の公益に身を忘れての活動は末たのもしき極みなり」が入り、冒頭と対比する形で「木の葉潜りし谷水は小川に入りて大河に今又更に沖に出づ/行く手は広し限りなし/行く手は広し限りなし」と記されて終わる。本シナリオ案の特徴は、公立事業の役割と機能を多面的に描いた点にある。すなわち、縁故と営利事業を利用した失敗と、公立事業を利用しての成功が対比的に描かれ、公立事業を経て人生を成功させた森田によってそれが強調されているのである。なお、同映画シナリオからは製作者の別の意図も読みとれる。すなわち勤勉な森田を通じて、民衆の「あるべき行動規範」(いわゆる「通俗道徳((注(注」といってよい)の重要性が暗示されており、この点に、製作者の観覧者への教化の意図もうかがえるのである。とはいえ、その行動規範は処世訓というべきものであり、後述する「苦楽の門」とは異なり抑制的なものといいうる。このように本シナリオ案は、公立事業を介して職業を紹介された森田が、公立事業の利用によって人生に成功し、社会貢献に至る点を、公立事業の社会的意義と勤勉による処世訓とともに描いたという特徴があったといえる。5.劇映画シナリオ案の検討②─「苦楽の門」続いて、⑤「苦楽の門」を検討する。④と同様、劇映画であり、縦三〇行×横一〇行の原稿用紙に一一頁、ペン書きの、文字通り「筋書」である。シナリオ冒頭では、「主要挿入部分」として、「日傭労働の件、一般職業紹介の件、紹介所の使命、理由、事業、成績、並に機能連絡に関する件、顧〔雇〕傭主府紹介所員対被傭人、少年少女紹介に関する全般、知識階級就職に関する径路、附帯事業の中、二三件」というメモ書きがある。公立事業の機能についての宣伝を盛り込むことが予定されていたことがわかる。また、冒頭には「濁り江に人をも身をも沈めじと 助け合ふこそ清き世渡り」という短歌、終結部には「とる棹の心ながくも、こぎよせむあしまの子船さはりありとも」という明治天皇の御製が、それぞれ物語の筋書を象徴するものとして掲げられている。以下、内容分析のため、先と同じく物語の展開を引用しつつ紹介する。舞台は静岡県の農村、天竜川近く、主人公は淳吉という青年である。亡き父の経営していた馬車屋を継承したが、鉄道や自動車の発達により商売が苦しくなり、病気の母のために先祖伝来の田畑を売り払ったものの、その後愛馬と母とを亡くした。唯一の「色彩」は近所に住む甚造の娘お葉であったが、甚造は別の男性に娘を嫁がせた

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