日本大学生産工学部研究報告B(文系)第54巻
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( 2 )1.はじめに本稿の課題は、東京大学社会科学研究所糸井文庫に収められている、昭和戦前期の公立職業紹介事業(以下、公立事業)に関する映画シナリオ案五点の内容を検討し、その歴史的位置づけを明らかにすることである。近代日本における職業紹介事業は、江戸時代に起源を持つ前近代的な口入屋・桂庵、日雇周旋をはじめとする営利職業紹介事業(以下、営利事業)が圧倒的な軒数とシェアを持っていたが、不当な紹介手数料を要求する詐欺的業者や人身売買を行う業者もいるなど多くの問題点があった(注1)。これに対し、原則無手数料で職業紹介を行う公益職業紹介事業が宗教団体により開かれ、公立事業としては、一九一一(明治四四)年に東京市養育院が監督する初の公設東京市職業紹介所が設置されるに至った。当初、公立事業のシェアは営利事業に及ばなかったが、第一次世界大戦後のILO勧告により、公立事業の義務化と営利事業の廃止の方向性が明確化されると、一九二一(大正一〇)年の「職業紹介法」施行により全国の市及び人口三万人以上または工場二〇以上を有する三万人未満の内務大臣が認める町村への公立事業設置が奨励され、一九三〇(昭和五)年に一道三府四三県に二六八ケ所を数えた(注2)。一九二〇年代後半の公立事業は、少年職業紹介事業や女工の職業紹介事業などへ展開し、失業対策事業の受付など広範な業務も担っていたが、公立事業は役所仕事として敬遠されたほか、「救貧」機関としてのイメージから利用を敬遠する人々も多く、全国的な就職者数では営利事業に劣っていたため、事業の普及と機能強化が課題であった。こうした中で、職業紹介事業を統括した内務省管内の中央職業紹介事務局では、一般の求職者に対して公立事業の利用を勧奨するイベントを開催し、ラジオ、ポスターなどのメディアを複合的に活用する方針を打ち出し、ラジオ放送は一九二九年から東京で始まり、地域求人の充足に一定程度機能することとなった(注3)。本稿で検討対象とする映画の活用については別稿で論じたように、昭和戦前期の不況に対する公立事業の機能と役割の拡大が求められる中で、一九二〇年代末以降、中央職業紹介事務局が所蔵ないし製作した映画が普及宣伝の目的から各紹介所や求人開拓イベントで用いられて始まった。その後、公立事業の普及宣伝に努める目的を持つ職業紹介事業協会が日中戦争期にかけて後述する労働者を描いた三本の記録映画と、戦時期には利用者の幸福と戦時協力を描いた一本の劇映画を外部委託して製作、職業紹介所、小学校へ貸与するなどして活用された。ここから映画は限定的であったが製作活用され、公立事業の利用を一般に宣伝し、戦時期には労務動員を児童へ促す役割を、一定程度担っていたと結論付けた(注4)。しかし、その後追加調査を進める中で、構想段階の記録映画シナリオ案三点、劇映画シナリオ案二点が、東京大学社会科学研究所糸井文庫(以下、糸井文庫)の中に存在していることがわかった。糸井文庫は、今日最もまとまった職業紹介事業関係史料を所蔵していることで知られる。史料の所蔵者糸井謹治は、一九二〇年の中央職業紹介局発足時に担当職員として採用されたのち、職業紹介所の設置奨励、職業紹介業務に関わる諸統計の取りまとめや、機関誌『職業紹介時報』の編集・発行等を担当、一九二九年一一月に名古屋地方職業紹介事務局長、一九三四年七月に東京地方職業紹介事務局長を経て、一九三六年九月からは職業紹介行政の責任者である東京府職業課の初代の課長となるなど第一線で活躍した。この間収集された史料の中に本稿で検討対象とする映画シナリオ案も残されていたのである(注5)。後述するように、これらのシナリオ案は昭和戦前期、名古屋や大阪地方の職業紹介事務局が企画したもので映画化はされていない(注6)。しかしこれらのシナリオ案の検討は、公立事業がいかなる目的でいかなる映画製作を企図していたかについて新たな知見を得ることができるものであり、戦時期にかけての公立事業の映画製作と活用の全容を捉えるためにも欠かせない作業である。そこで本稿は、糸井文庫の五つのシナリオ案を検討し、内容を分析するとともに、その製作目的を明らかにする。そのうえで検討結果をふまえ、戦時期にかけて公立事業の映画製作と活用の全容についてもまとめておきたい。2.検討対象のシナリオ案の特徴ここではまず、公立事業による映画活用の様子と検討対象であるシナリオ案の位置を確認しておきたい。昭和戦前期の不景気が続く中、公立事業の利用が重要視されると、映画の活用は積極的に提案されるようになっていた。例えば、田中義一内閣下(一九二七年四月二〇日~一九二九年七月二日)では、内

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