日本大学生産工学部 研究報告B(文系)第51巻
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( 2 )1.はじめに一九三七(昭和一二)年の日中戦争勃発後、日本では、翌年公布された「国家総動員法」により、総力戦を支える戦時国家総動員体制が構築され、既存の様々な公的団体や施設がその機能と役割を変えていった。とりわけ公立の職業紹介所(以下、職紹)は、失業など資本主義的経済秩序の問題点を克服する施設であったが、戦時下では労務動員機構へと大きな変化を遂げた一行政機関であった(注1)。そもそも近代日本の職業紹介事業は、江戸時代以来の口入屋が明治以降職業別に、口入業、日雇周旋、寄子業、公周旋業という様々な営利事業に分化したところに始まる。二〇世紀初頭になり、これらの弊害が可視化され、慈善救済事業として宗教団体が公益事業を開始した後、西欧の施設を参考に一九一一(明治四四)年に公設東京市職紹が設置され、ようやく公立事業が始まった。そして一九二〇(大正九)年「職業紹介法」公布により、内務省社会局の監督・各地方職業紹介事務局体制、国庫補助のもと、全国市町村に公立職紹の設置が奨励され、徐々に増加していった(注2)。その後、昭和初期にかけて不景気による就業機会の創出、失業救済事業事務の増大などの課題が発生、職紹は求職者の多様性から、市町村経営を超えた求人連絡体制の確立が求められ、機能強化のために一九三六年の「改正職業紹介法」により府県知事の監督権限への委譲が行われた。そして日中戦争勃発後には、総力戦に伴う労務動員の役割が重要視され、一九三八年の「改正職業紹介法」によって職紹は国営化、同年一一月までに国内全地域・全国民を職業行政=労務動員行政の対象とし、全国七〇〇ヶ所の職紹を整備して四〇〇ヶ所の国営職紹に集約、六七〇〇人の職員を配置するに至ったのである(注3)。これまでの研究では、この間職紹が各種民間営利事業や労働団体なども統合しながら拡大し(注4)、労務需給の配分を行う重要拠点として、国家総動員を担った役割が明確に指摘されてきた(注5)。しかし、その役割は解明されたが、戦時期までにいかに地域社会で定着し、それが総力戦によっていかに変容し、地域社会や人々の生活を変質させたかの検討は少ない(注6)。これは戦時下の地域社会における労務動員の実態とそれがもたらした歴史的影響をより具体的に解明するだけでなく、戦後への連続性が強いとされる(注7)現在までの公共職業安定所の歴史的役割を考える上でも重要である。これまで筆者は、一九二〇年代後半から職紹が地域の小学校や児童に対する連携を深め、満州事変、日中戦争後には地域の職業紹介イベントや映画、ラジオ等のメディアを通じて地域社会・軍需産業との連携を強めてきたこと、これらが国家総動員体制において児童の職業指導や軍需工場への動員の背景となったことを指摘してきた(注8)。本稿ではそうした一九三〇年代の地域活動を経て総力戦を迎えた一九四〇年代の地域社会における職紹の活動実態を知るための貴重な史料を紹介する。史料は長野県上高井郡須坂町の須坂町職業紹介所(以下、須坂職紹)がまとめ、須坂職業協会が一九四〇年に刊行した『作業態様と所要性能』である(【図1】。以下本冊子)。【図1】須坂職業紹介所編『作業態様と所要性能』表紙
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