概 要─ 47 ─元来建物を壊すことを専門に行う業者はなく,鳶職や大工がその業務を行っていた。鳶職は木造躯体を壊し,大工は内装などの装飾を壊していた。建物の壊しを専門に行う業者がでてきたのは,明治初期頃だとされている。明治初期,大名は土地・建物を手放し,そこに新たな建物を建てるには,木材が非常に貴重なものであったため,既存の建物を壊して材料を調達した。古材は新材のおおよそ7割程度の価格であり,傷がつかないように壊すという精神は徹底された。そして材料を傷つけない道具が必要とされ,壊し屋は鍛冶屋と連携し独自の道具を開発した。こうして古材を生かして取り出すことを専門に行う壊し屋業が誕生した。お金を支払って建物を買い,建物から出る木材や建具を売ることにより儲けを出していた。戦前まで安定的にこのような解体の仕事を行っていった。戦時中,「壊し屋の組合をつくり,火事防止のために東京を区画整理する」ことになったが,「壊し屋組合」では格好がつかないということになり,“体”を“解す”という意味で“解体”という言葉が生まれた。そして,壊し屋の組合は「東京解体協同組合」という名前で発足した。東京大空襲により,木造解体の仕事は激減した。そこで,解体業者は空襲を免れた鉄骨造倉庫の解体を仕事とした。鉄鋼は非常に貴重な資源であり,これについても材料を取り出し再び販売して使うスタイルは受け継がれた。昭和中期になると鉄筋コンクリート造も解体されるようになった。当初は,コンクリート中の鉄筋を傷つけずに取り出すため,ハンマーとノミを使って手壊していた。次第に,従来の解体業者は木造建物の解体を行い,鉄筋コンクリート造などの解体は石切を専門に行っていた業者“やまや”が行うようになった。古材が売れなくなり,解体の機械化に伴い,昭和38年頃には,材料を傷つけずに壊し,古材として売りに出すという本来の解体を行う業者は少なくなった。日本の建築解体の変遷−東京解体協同組合発足まで−湯浅 昇,小熊徳彦
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