概 要─ 41 ─鉄筋コンクリート構造物の解体の沿革を考える時,木造については長い歴史があるものの鉄筋コンクリート造については新築の記録はあっても解体に関する記録はきわめて少なく1965年頃までは,当時の経験者の話を集約する以外に手掛かりがない状態であった。また本格的な鉄筋コンクリートの解体が行われだしたのは昭和30年(1955年)以後のことである。鉄筋コンクリート造の解体は、第二次大戦中に煙突などの引倒しはあったが、戦後は新築工事より遅れ1950年代に入り、はつり工法によりはじめられた。玄能(両手持の大ハンマ重さ5~20kgくらい)を用いて矢(楔)をコンクリートに打ち込み、大割りしてこわした。1958年の有楽町ピカデリー劇場の解体では、昼夜50人くらいの解体工(やま屋:元々石切を専門に行っていた業者)が働き、この工法でまさしく人海戦術で解体を行った。梁などでは上からスターラップを平のみで叩き切って、軸方向主筋の間に矢を打ち込み、柱は横倒ししてから帯筋を切り、解体した。ここでは、コンクリートの中にある鉄筋は綺麗に取り出していた。その後、ブレーカ工法、スチールボール工法、そして大型ブレーカ工法と破壊工法に近い形で工法が進んだが、環境問題等の発生でスチールボールは衰退し、大型ブレーカも次第に空気圧から油圧へ転換された。1970年代に入ると、カッタ工法による部材別解体、静的破砕剤・電気的間接破砕工法、ジャッキ工法などが試みられたが、圧砕工法がスチールボール、大型ブレーカ工法にかわって汎用工法となって現在に至っている。日本における鉄筋コンクリート構造物の解体技術の変遷湯浅 昇
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