日本大学生産工学部研究報告B(文系)第53巻
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─ 2 ─の写真は図1のように,16冊のファイル(以下「法廷写真集」と称す)にまとめて保管されており,この横浜法廷の他に市ヶ谷法廷(東京裁判)やマニラ法廷など,米軍の管理下にあった軍事法廷の写真が収録されている。この法廷写真集の特筆すべき点は,写真の撮影内容も然ることながら,すべての写真に撮影年月日,被写人物名,撮影概況などのキャプションが付いていることにある。このキャプションが研究上非常に重要で,それらの記載情報を基に,撮影内容や関連する文書資料との分析を試みると,法廷の雰囲気や被告人の処遇状況など,既存の文書資料では窺い知ることのできない情報をもたらすことがある。例えば図2の写真の場合,裏面に付されたキャプションによると,被写人物は「九州帝国大学の医療スタッフ」と記載されており注3),また撮影日が1948年3月11日となっていることから,この写真は遠藤周作の『海と毒薬』のモチーフとなった九州大学医学部生体解剖事件(横浜法廷283号事件/ Case No.290)注4)の写真であることが分かる。またキャプションとは別に,この写真の撮影内容も非常に興味深い。注目すべき点は被告人らの服装であり,画面右側の2名の男性被告人の右袖には,かすれながらも“P”の字が読み取ることができる。この“P”とは“Prisoner”の頭文字で,被告人らを収容している巣鴨プリズンで,1947年6月頃から支給されるようになった衣服である(以下「P服」と称す)。当初,巣鴨プリズン内や横浜法廷への出廷時の服装は,容疑者・被告人らの私服着用が認められていたたが,1947年6月頃から私服が禁止され注5),その代わりに支給されたのがこのP服である。このP服には,背中,左右の袖と太腿,そして臀部の合わせて6か所に“P”の字が大きく印字されていた。そのため容疑者・被告人らは,このP服の支給・着用により精神的動揺を来し,自身が改めて囹圄の人であることを否応なく認識させられたという注6)。ところが図2に写る左側の女性被告人の衣服をよく見ると,男性被告人と異なり“P”の字はなく,デザインに至っては瀟洒なものになっている。横浜法廷の女性被告人は,この人物の他に2名の女性が起訴されているが,彼女らが写る写真の何れにも,その着衣に“P”の字を見ることはできない。つまり図2の撮影内容から,横浜法廷への出廷時の服装対応について男女差を確認することができ,この差異がGHQによる女性被告人への配慮なのか,それとも単に女性用P服の準備が無かっただけなのか,残念ながら現時点でそれを判断し得る資料を持ち合わせていないが,図2の画像資料に写る女性被告人の服装を見る限り,一般市民が敗戦による窮乏生活を強いられている当時においては,デザイン性に富んだ法廷服であり,GHQ・米軍側の戦犯・被告人処遇を分析する上で,非常に示唆的な写真資料といえるのである。このようにNARAで保管されている図1の対日戦争犯罪法廷の写真集は,撮影内容も然ることながら,キャプションの存在によって,その学術的価値を高めている。そこで本稿ではこの写真集の概要を報告するとともに,そのなかから筆者の研究テーマである横浜法廷の弁護制度に関して,撮影内容とキャプションを分析を行い,この分野の研究を行う上で,興味深いと思われる写真資料を紹介と考察を試みることを目的とする。2.写真資料概況2.1 NARAにおける写真資料の保管状況この横浜法廷の写真を撮影したSCとは,本来は米軍の通信システムの構築及び軍事情報の管理を担う部隊で,その歴史は南北戦争勃発直前の1860年まで遡ることができる注7)。この通信部隊であるSCが,写真や動画の撮影の任務も兼ねるようになったのは,第二次世界大戦中の1943年からで,その目的は戦争の記録を行うことにあった2)。大戦中にSCが撮影した写真の用途は,軍上層部への戦況報告資料や,作戦立案のための軍事資図1 米国立公文書館・新館(The National Archives at College Park)で保管されている『対日戦争犯罪法廷写真集』16冊の黒いファイルに収録されている。筆者撮影。図2 九州大学医学部生体解剖事件の被告人席The National Archives at College Park所蔵画像(画像請求番号:111-SCA/ 5599/ #15/ SC301853)。画像を拡大・一部修正。

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