日本大学生産工学部研究報告B(文系)第53巻
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─ 13 ─あげられ,PWの,或はPの字の大きくおされたアメリカの被服を新しく貰う」(上坂冬子編『巣鴨・戦犯絞首刑─ある戦犯の獄中手記─』,ミネルヴァ書房,1981, p.94.)とあり,また別の被告人の手記によればP服の支給は1947年7月15日の出来事とされている(中山喜代平『巣鴨プリズン二〇〇〇日』,徳間書店,1982, p.130.)。注6)たとえば,飛田時雄『C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン』,草思社,2011, p.168.注7)詳しくは松田裕之『連邦陸軍電信隊の南北戦争』,鳥影社,2018, pp.57-60.注8)NARAのアーキビストの説明によると「No.5585からNo.5600の16冊のファイルにたまたま対日戦犯軍事法廷関連の写真が集中的に綴られているだけで,他のファイルに対日戦犯法廷関連の写真があってもまったく不思議ではない」との回答があった。またフリーランスのリサーチャーとして永年NARAで調査活動をされている柳原緑氏は「まとまった形で対日戦犯軍事法廷の写真が収まっているファイルは,この16冊以外には見当たらない」とのことであった。注9)上述の「九州大学医学部生体解剖事件」の写真のキャプションがこれに該当する。注10)キャプションでは“Russel Brines”となっているが,正しくは“Russell Brines”。注11)キャプションの英文和訳は筆者によるもの。注12)森口氏が調査した資料はBOXの方の写真のようで,本稿で紹介している法廷写真集ではないように思われる。ただしこの法廷写真集にも「石垣島事件」関連の被告人写真が綴じられており,森口氏が指摘する同じ記載ミスが確認された。注13)米軍が管理していた巣鴨プリズン内の写真も存在しない。注14)外交史料館所蔵「昭和二〇.九.一三.重光大臣ヨリ「サザランド」参謀長ニ対シ口頭申入文」(資料請求番号:本邦戦犯裁判関係雑件第1巻/ D'.1.3.0.2),国立公文書館所蔵「戦争裁判連絡委員会,同幹事会(金曜会,木曜会)」昭和20年12月14日条議事録(資料請求番号:平11法務05912100(0006-4190))注15)たとえば,飛田時雄『C級戦犯がスケッチした巣鴨プリズン』,草思社,2011.注16)戦争犯罪被告人審理規程第2条第b項1号(c)「戦争前若しくは戦争中にすべての一般人民に対して行なわれた殺害,せん滅,奴隷化,移送及びその他の非人道的行為又は犯行地の国内法の違反であると否とを問わず,この規程において定められた犯罪の遂行として若しくはこれに関連して行われた政治的,人種的若しくは宗教的理由に基づく迫害行為」法務大臣官房司法法制調査部『戦争犯罪裁判関係法令集第3巻』戦争犯罪裁判資料第3号,1967, p.45.注17)もう1枚,この3名が写る写真があり,記念撮影的な内容となっている。NARA所蔵画像(画像請求番号:111-SCA/ 5587/ #3/ SC227275)注18)鵜飼信成教授は戦前にアメリカ留学の経験があり,戦後はアメリカ公法学の泰斗して活躍され,横浜法廷では一時期,終連の嘱託として傍聴席で審理の記録を取り続け,ある事件では証人としても法廷に立たれたことがある。注19)詳細は,拙稿「BC級戦犯横浜法廷における日本人弁護人の費用負担問題について」日本情報ディレクトリ学会誌15号,2017, pp.114-124.注20)渡辺治湟弁護士は任期により会長を1946年3月で辞任し,後継は飛鳥田喜一弁護士(後に最高裁判事)が就任する。なお飛鳥田喜一弁護士は,後に横浜市長,日本社会党委員長を務めた飛鳥田一雄弁護士の父親にあたり,親子でこの戦犯弁護に精力的に支援している。注21)横浜法廷における横浜弁護士会の活動を伝える文献としては,横浜弁護士会『法廷の星条旗─BC級戦犯横浜裁判の記録』,日本評論社,2004.,清永聡『戦犯を救え・BC級「横浜裁判」秘録』,新潮社,2015.注22)上坂冬子氏の取材によると,由利敬被告人の担当予定日本人弁護人は児玉正五郎弁護士(横浜弁護士会)であったとしており(上坂冬子『巣鴨プリズン13号鉄扉』,新潮社,1981, p.33.),由利被告人の担当予定弁護人を巡って浅沢直人弁護士の証言との違いが生じている。なお,浅沢弁護士によれば由利被告人の弁護人を引き受けた経緯について,当時,外務省の外局であった終戦連絡横浜事務局長の鈴木九万が「二番目,三番目の弁護を受任した人が,病気だとかの理由で辞退した,横浜弁護士会は信用できない」と抗議してきたため,その場に居合わせた浅田弁護士が「二番目の弁護」つまり由利被告人の弁護人を引き受けることになったという(横浜弁護士会,前掲会史,p.433.)。この辞退した弁護士が児玉弁護士かどうかは定かではないが,何れにしても上坂氏と浅田弁護士の証言の違いは由利被告人が二人もの日本人弁護士の説得を断っていた可能性が考えられ,由利被告人の日本人弁護人に対する固くなな態度を考える上で興味深い事象である。注23)キャプションでは1946年1月4日撮影となっているが,法廷速記録では1946年1月5日とある。キャプションの方の誤記と思われる。注24)たとえば日本国憲法第37条第2項,アメリカ合衆

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