日本大学生産工学部研究報告B(文系)第53巻
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─ 10 ─ことが記録されている40)。このような被告人自身による反証は一般的に珍しく,管見の限り横浜法廷では,このケース以外での同一事例は確認できていない。というのも反対尋問権の行使は一般の被告人にとって難しく,弁護方法上,あまり得策とはいえないからである。確かに,刑事手続上,反対尋問権は被告人の権利として認められているが注24),検察側証人への反対尋問は,証人を糺すことによって,検察側が描いた事件の構図を崩すことにあり,そのためは相応の尋問技術と経験値が必要となる。その意味では,由利被告人のような一般人には不向きとされている。加えて横浜法廷の場合,日本人の弁論は日系二世を始めとする米軍側のスタッフが法廷通訳を行っていたため,日本語の微妙なニュアンスや難解な軍事用語が伝わりづらく,軍事委員の心証を損ねるリスクもあった。実際,由利被告人の法廷速記録には,軍事委員の1人が由利被告人の質問の趣旨を理解しかね,法廷通訳を介して聞き直している場面も記録されている41)。何れにしても図9の写真は被告人自らが反対尋問を試みるという,刑事訴訟的にも珍しい様子を撮影した写真で,訴訟上のリスクを冒しながらも,同意しかねる点には是々非々の姿勢で臨んだ様子を撮影した貴重な写真といえよう。このような由利被告人の対応にも拘わらず,法廷は2日後の1946年1月7日に絞首刑を宣告する。これに対して由利被告人は1月11日に,マッカーサー元帥へ公正な審理の機会が与えられたことの謝辞から始まる,自身の助命嘆願書を35枚の便箋にまとめて提出している。それによると,自身には無収入の老母と婚約者がおり2人を残して死ねないこと,また捕虜収容所所長時代には収容者の福利厚生の向上のために尽くし,収容者や視察に来た赤十字国際委員会のマックス・ペスタロッチ(Max Pestalozzi)氏などから模範的な収容所として称賛されており注25),自身が断じて捕虜虐待者ではないことが記されている。そしてこの嘆願書の最後は,起訴内容となった2件の捕虜死亡事故を詫びつつも,自らが法廷で行った1月5日の反対尋問の再検証をマッカーサーに懇願し,検察側証人である元部下の不誠実さをなじる内容となっていた42)。このように図9の写真は法廷の概況を記録した写真であると同時に,由利被告人の嘆願書にもあるように,被告人にとっては自身の潔白を立証しようとする大事な場面を撮影したものでもあった。なお由利被告人関連の法廷写真は,筆者の調査によればこの貴重な写真の他に12枚確認できており,絞首刑宣告時の様子や,その後移送車に載せられた被告人の様子を撮影した写真も残されている43)。おそらくこれが生前最後の写真と思われる注26)。3.4 横浜法廷と「灸」の審理横浜法廷で審理された戦争犯罪容疑の多くは捕虜虐待関連の行為である。特に日本軍内部で常態化していた殴打(ビンタ)や棍棒を用いた制裁などが,捕虜にも行われていた。これが捕虜虐待行為として起訴されたケースが非常に多い。また,灸による施療や,食材としてゴボウを提供したことが,捕虜虐待行為として起訴されたこともよく知られている注27)。この施灸問題に関する画像資料として,NARAの法廷写真集には2枚の写真が収録されている。1つが1946年1月11日に終身刑が宣告された第3号事件(横浜法廷3号事件/ Case No.3)のものである。この事件では岐阜県にあった捕虜収容所の所長が起訴されたもので,起訴内容は①赤十字社からの対捕虜恤救品の横領容疑と,②部下による捕虜虐待の黙認行為である。問題の施灸行為は②の方で問われたもので,事件当時,被告人が担当する捕虜収容所では病弱者が続出していたため,収容所の監督官署である大阪俘虜収容所本所長注28)は被告人に対して,医薬品不足を理由に捕虜の健康管理を灸で図るよう指示し,被告人は収容所内の部下に命じて施灸させたというものである。これが被告人に対する起訴理由の一つとなり,起訴状には図10 図8の写真のキャプションThe National Archives at College Park所蔵画像(画像請求番号:111-SCA/ 5587/ #3/ SC227855)。一部加工修正。修正箇所には証人の氏名が記されている。図9 証人尋問を行う由利敬被告人The National Archives at College Park所蔵画像(画像請求番号:111-SCA/ 5587/ #3/ SC227855)。法廷中央で直立姿勢で尋問を試みているのが由利被告人。元部下である証人は写真中央やや左側の椅子に座る背面の人物。

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