日本大学生産工学部研究報告B(文系)第53巻
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─ 8 ─理由で,第1号事件の日本人弁護人を一方的に引き受けさせるという状態であった。渡辺弁護士はこの時の林弁護士による依頼の様子について,「半強制命令的な推薦」であったと回顧している26)。何れにしても15日の午後に第1号事件の日本人弁護人を受任した渡辺弁護士は,四日後から始まる18日の開廷に向けて,アメリカ人弁護人と共に手探り状態で弁護準備を行って,第1号事件に臨んだのである。その後の事件審理では,東京の三弁護士会からも弁護士の派遣が行われるようになり,横浜弁護士会では1946年から渡辺の後継会長となった飛鳥田喜一弁護士が注20)戦犯被告人を支援のための弁護士会決議を行い,組織を挙げて弁護活動に当たっている注21)。渡辺弁護士はそのような横浜弁護士会の活躍の先駆けとなったのである。このように横浜法廷開廷直前の弁護体制に関してその概況を紹介したが,資料的にこの12月17日前後の記録が乏しく,特に横浜弁護士会の動向については渡辺弁護士を除くと皆目見当のつかない現況にある。そのため,第8軍法務部長のLaughlin大佐と面会をしている鹿島・山本両弁護士を写した図7の写真は,両者が横浜弁護士会の指示でLaughlin大佐と会っているのか,それとも個人的判断によるものなのか,はたまた偶然法廷に居合わせたのかは不明だが(キャプションには2人を“spectator”と記している),少なくともこの写真は,渡辺弁護士以外の横浜弁護士会関係者が混乱状態にあった12月17日の横浜法廷に居たことを記録するものであり,横浜弁護士会の活躍への第一歩を示す貴重な写真資料として位置付けられるのである。3.2 渡辺治湟弁護士の活動第1号事件の渡辺治湟弁護士の選任以降,被告人には若干の例外を除き,基本的にはアメリカ人弁護人と共に日本人弁護人も選任されていた。ところが被告人の間における日本人弁護人の評価は,それほど高くないのが実情である。例えば1960年代に法務省が行った元被告人への聞取り調査では,日本人弁護人の印象を「単に形式的な存在であった」27),「裁判に際して日本人弁護士は活動しなかった。陪席するだけで米弁護士が担当した」28)と評したり,なかには「日本人の弁護人が全然頼りにならず,却って恐れていた。私等が中で頼れるのは,日本人であるべきであったのに,全然頼みには出来なかった。日本人が,日本が,何故あの様な人を弁護人としたのか」29)と怒りを露わにする者までいた。このような消極的評価をもたらした背景には,2つの要因が考えられる。その1つが言語上の問題である。横浜法廷では英語で審理が行われていたため,一般的な日本人弁護人は法廷通訳を頼らざるを得ず,その分,弁護活動の足枷になっていた。そしてもう1つが日米の刑事訴訟システムの違いであり,これが日本人弁護人にとっては致命的であった。横浜法廷の刑事訴訟手続きは,いわゆる英米法系の訴訟手続きが採用されていたが,日本人弁護人は,明治以来,この英米法系とは全く異なるドイツ・フランス式の大陸法系の訴訟手続きで弁護活動を行っていた。この英米法系と大陸法系の訴訟手続き上の違いは裁判官の位置付けに顕著に現れており,大陸法系の裁判官は,自ら事件の調査を行うなど,裁判に主導的に関与して有罪・無罪の判断をするのに対し(職権主義),英米法系の裁判官は法廷では一歩引いた第三者的な立場にあり,検察官と弁護人の遣り取りを通して有罪・無罪を決めるのである(当事者主義)。その意味では,英米法系の弁護人が被告人の無罪を勝ち取るためには,裁判官の前に立って検察官と激しく対峙しなければならず,弁護人にはそのための高度な弁論技術や豊富な経験が要求されていた。横浜法廷の日本人弁護人の場合,語学の問題は法廷通訳を利用したとしても,英米法系の十分な訴訟技能・経験は持ち合わせておらず,法廷で被告人の目に見える形での積極的な弁護活動はかなり厳しいものがあった。そのため軍事委員や検察官を前にした法廷での弁護活動はアメリカ人弁護人が担い,日本人弁護人の役割は法廷に提出する弁護資料や証人探しといった,法廷外での業務が中心となっていた。前述の元被告人らが抱いた日本人弁護人に対する否定的な印象も,このような事情に起因する。日本人弁護人関係者からも「法廷では日本人の弁護人の活躍する余地はありませんでした」30),「当時日本人の弁護士は,英米法の裁判を知らず,口供書が直接証拠になる等考えなかった。随って検事側の証人の反対尋問もなし得ず,法廷の活動は米人弁護人に専ら頼る外なかったのが実情である」31)と,法廷での苦い経験を吐露している。さて,先述のように1945年12月18日から始まった第1号事件の渡辺弁護士も英米法系の訴訟手続きに不慣れで,英語での弁論も難しい状況にあった。第1号事件の弁護は基本的にアメリカ人弁護人であるディッキンソン(John Dickinson)中佐らによって進められたが,それでも渡辺弁護士が12月26日の審理で日本語による証人尋問を試みており(この証人も後に戦犯として起訴され有罪宣告を受けている)32),その時の写真がNARA所蔵のファイルに収められている図8のものである。このような日本人弁護人による証人尋問は,横浜法廷では一般的ではなく,図8のような日本人弁護人が発言している写真は,この法廷写真集のなかでは渡辺弁護士のものだけとなっている。後に第1号事件で起訴された被告人は「渡辺弁護人とは何等打合せをしたことがなかったが渡辺弁護人は日本語で渡辺所見を発表して,私のために良く弁護して呉れたと思っている。又米人の弁護人も今から考えれば私のために良く弁護して呉れた」33)と述べ

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